「小岩井」と聞くと牛乳を思い出す人がほとんどであると思う。
1907年~1949年までサラブレッドを生産し、日本トップの生産牧場であったことは知る人はあまりいない。
今日はそんな「小岩井」の競馬の話である。
小岩井の始祖は井上勝である。
井上勝は、日本の鉄道の父と言われる人物。幕末の動乱期にイギリスに密航した伊藤博文、井上馨ら長州五傑のうちの一人である。
1888年に明治政府の鉄道庁長官であった井上勝は、東北本線の延伸工事視察のために盛岡を訪れた際、そこに大農場を拓くという夢を抱いたという。
井上は、長年、鉄道敷設事業に携わる中で、数多くの「美田良圃(びでんりょうほ:美しい田と良い畑)」を潰したことを後悔しており、荒野に大農場を拓くことで、美しい田園風景を損なってきたことの埋め合わせをしたいと考えたらしい。
井上は、この構想を岩崎彌太郎のもとで三菱を支えていた小野義眞に打ち明け、助力を依頼した。当時、三菱社は、彌太郎の死後、実弟の岩崎彌之助が第2代社長に就いていた。小野義眞は、早速、井上と彌之助を引き合わせた。
農場を拓きたいという井上の願いに感銘を受けた彌之助は、その場で出資を快諾したという。こうして、1891年(明治24年)1月1日、井上勝が場主となり小岩井農場が開設されたのだ。
小岩井という名前は、小野、岩崎、井上、3人の名字から1字ずつ取って作られたものなのである。
しかし、開設から小岩井農場の経営は厳しかった。土地の生産性が低かったこと、井上らに農場経営の経験がなかったことや、明治のこの時代にまだ畜産物の流通市場が発展していなかったことなどが、経営不振の原因と言われる。
井上は、鉄道庁長官を退任した後も汽車製造会社の設立に奔走するなど、終生の仕事である鉄道事業が多忙を極めていたこともあり、経営改善の見通しが立たない農場事業を手放すことを決心し、明治32年(1899年)、小岩井農場の経営は、井上から岩崎家に引き継がれる。
三菱三代目岩崎久彌は、明治初年来の国策である殖産興業の一翼を担い、日本人の体位向上に資するために畜産振興を目標に定める。種畜の生産供給(ブリーダー事業)を主とし、その餌となる作物の耕作を行なうことを(畜主耕従)経営方針とした。オランダなどから輸入した乳用種牛をもとに品種改良を開始。全国の種畜場・牧場などに種畜を供給した。これが今皆さんが良く知る、畜産事業の始まりである。
乳用牛のブリーダー事業に加え、当時の小岩井農場の経営を支えたのが、今回のお話、競走馬の生産を核とする育馬事業である。
小岩井が本格的にサラブレッドの生産を始めたのは明示40年(1907)で、イギリスから繁殖牝馬と種馬馬(インタグリオー)を輸入したことから始まった。
イギリスの名馬St.Simonが生まれたのが1881年で小岩井の牝馬群が1897年~1904年産まれであることから、あと10年遅ければもっと優れたSt.Simonの血量の牝馬が手に入ったかもしれないが、輸入した半数以上馬は傍流の血であった。
その際に輸入された牝馬は20頭であるが、特に重要な馬を以下に記す。
・フラストレート
・キーンドラー
・エナモールド
・フロリースカップ
・プロポンチス
・ライン
・フェアペギー
・アストニシメント
・ウェットセール
・ボニーナンシー
・ビューチフルドリーマー
・ヘレンサーフ
これらの基礎牝馬が現在にどのような影響を与えているかはその子供を見たら明らかである。
ビューチフルドリーマーからはシンザン、タケホープ、ホエールキャプチャ、テイエムオーシャン。
フロリースカップからはスペシャルウィーク、メイショウサムソン、ウォッカ、マチカネフクキタル、シスタートウショウ。
アストニシメントからはメジロマックイーン、メジロデュレン、トロットスター。
など数々の有名な馬が誕生している。
小岩井農場では後の時代にシアンモアやプリメロを種牡馬として輸入し、この20頭の子孫との交配によって空前の大成功を収める。
例えば、牝馬で皐月賞1着、東京優駿2着、優駿牝馬1着のトキツカゼはプリメロ×第五マンナで、第五マンナはシアンモア×マンナ、そしてマンナの牝系をたどると基礎牝馬のフラストレートに行きつくという小岩井農場が生み出した傑作でもある。
1941年の三冠馬・セントライトなど数々の名競走馬を輩出したが、GHQの財閥解体の勧告により1949年(昭和24年)に競走馬の生産から撤退を余儀なくされた。
まさに栄枯盛衰である。